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昭憲皇太后百年祭記念展 「―つねに人々に御心を寄せられて―昭憲皇太后のご生涯」
明治神宮はなぜここに
激動期の明治を生き抜かれた明治天皇と昭憲皇太后
1912年7月20日明治天皇のご病気の発表
1912年(明治45年)7月30日 明治天皇崩御
激動期の明治を生き抜かれた明治天皇と昭憲皇太后
1912年(明治45年)7月30日 明治天皇崩御
十万本の樹林の奉納 のべ十一万人のボランティア
清正井の湧水に咲く花菖蒲。そこに込められた天皇と皇后の美しい逸話。
花菖蒲で知られる明治神宮の御苑は、明治天皇が皇后(昭憲皇太后)のご健康を気遣われ、皇后が散策できるように整えられた庭園であり、当時は、雑木林と畑に囲まれた閑静な場所でした。
明治天皇は、明治19年1月、この地に行幸しています。
井戸(清正井:きよまさのいど)からこんこんと湧き出る清水の流れの中に立つ花菖蒲は、皇后のために、明治天皇によって植えられたものです。
この花菖蒲は、現在まで大切に守り育てられ、新緑が瑞々しい六月、約百五十種の千五百株がそれぞれ花を咲かせ、都心とは思えぬ優美さを呈します。
日本赤十字社の発展に御心を寄せられて
※1949年5月、昭和天皇の皇后(良子)の名で一千万スイス・フラン(当時と現在のスイス・フランの購買力を単純に比較しても約33億円)の巨額な寄付をしています。
昭憲皇太后からの十二の言葉の贈り物
十二の言葉日本のいちばん醜い日
1945年(昭和20年)8月14日から15日の二日間に発生した「8.15宮城事件」、世にいう「日本のいちばん長い日」―徹底抗戦を叫ぶ陸軍将校たちが昭和天皇の玉音盤奪取を謀って皇居を占拠したとされるクーデターで、森近衛師団長が惨殺される。この惨殺はなぜ決行されたのか?いつ、どこで殺害されたのか?遺体はどう処理されたのか?
天皇のロザリオ 上巻 日本キリスト教国化の策謀
「陛下が危ない!」市長は叫んだ。
九州巡幸・別府小百合愛児園の礼拝堂、昭和天皇にそのとき何が起こったのか?マッカーサーとカトリックが仕組んだ「日本改造計画」の秘密を暴く。
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ウィキペディア
昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう、嘉永2年4月17日(1849年5月9日) - 1914年(大正3年)4月9日)は、明治天皇の皇后。旧名・一条美子(いちじょう はるこ)。病弱で実子はなかったが、嫡妻として、明治天皇の側室(柳原愛子)が生んだ嘉仁親王(大正天皇)を養子とした。
維新期の皇后として社会事業振興の先頭に立ち、華族女学校(現学習院女子高等科)や、お茶の水の東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の設立、日本赤十字社の発展などに大きく寄与した(赤十字社の正式紋章「赤十字桐竹鳳凰章」は、紋章制定の相談を受けた際、皇后が大日本帝国憲法発布式で戴冠した冠のデザインが桐と竹の組み合わせで出来ていた事から、日本近代化の象徴として「これがよかろう」という事で、さらに皇后を象徴する瑞獣である鳳凰を戴く形に決められたという)。
明治になって再び朝廷に政権が返った事により、江戸幕府の大奥や西洋の宮廷の例のように、皇后や周辺が国政に関与する可能性も生じたが、自らを戒め、国政には直接関与しなかった。また、香川敬三や下田歌子など側近を得て、近代日本の皇后像を確立した。
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昭憲皇太后百年祭記念展『― つねに人々に御心を寄せられ ― 昭憲皇太后の御生涯』(定価2,000円税込)
正参道で開催中(6月30日まで)のパネル展を図録としてまとめました。4月8日より文化館売店でお求めになれます。
※文化館売店にて「昭憲皇太后百年祭記念書籍コーナー」を特設しています!
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