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映画「アクト・オブ・キリング」の背景
ノーム・チョムスキー・インドネシア ウィキペディア
・インドネシアの歴史 ウィキペディア
1602年、オランダ東インド会社がジャワ島に進出
1619年に制圧されたのがバンテン王国の首都ジャカルタであり、オランダ人はこの町をバタヴィアと改名した。
18世紀には3次にわたるジャワ継承戦争によってマタラム王国が4分割されてオランダ東インド会社の保護下に組み入れられると、ジャワ島全域がその支配下に置かれた。
ジャワ戦争(1825年 - 1830年)。
19世紀に入るとナポレオン戦争によるオランダ本国の混乱もあって一時支配力が弱まるが、オランダ東インド会社が解散されてオランダ本国による植民地直接統治が始まり、オランダ人によるプランテーション経営が広まって経済的な搾取は強まっていった。
パドリ戦争(1821年 - 1837年)。 1824年に英蘭協約を締結したが、この条約がアチェ戦争(英語版)(1873年-1913年)の導火線となり、オランダが勝利してスマトラ島の支配権も確立し、ポルトガル領ティモール(現東ティモール)を除き東インド諸島はすべてオランダ領とするのは20世紀に入ってからとなった。
20世紀初頭にオランダは従来の植民地政策を転換し、現地住民の福祉向上と、本国から植民地政府へ権限委譲をすすめる方針をとった。
※オランダによる愚民化政策
1911年サレカット・イスラーム(イスラム同盟)結成。
第一次世界大戦を経て、サレカット・イスラームの会員数は200万人をこえ、独立と社会主義を掲げるようになった。
1920年インドネシア共産党結成。
戦前のインドネシア民族主義運動の頂点となったのは、1928年10月27日に開催されたインドネシア青年会議における「青年の誓い」採択だった。
われわれインドネシア青年男女は、インドネシア国というただ一つの祖国をもつことを確認します
われわれインドネシア青年男女は、インドネシア民族というただ一つの民族であることを確認します
われわれインドネシア青年男女は、インドネシア語という統一言語を使用します
ここにいたって、独立を求める人々は、オランダ領東インドの国名として、「インドネシア」の名を選び取り、この地域に住むさまざまな民族をインドネシア人として統一し、独立を達成する、という決意を内外に示したのである。
1942年2月、日本軍の侵攻し、東インドを占領した日本は、日本陸軍の今村均中将により全域を軍政支配下に置いた。
オランダによって捕らえられ、流刑先にあったスカルノやハッタらの民族主義運動の指導者を解放し、またナフダトゥル・ウラマーなどイスラーム系諸団体の宗教指導者らに協力を要請し、彼らの指導力を利用して、物的・人的資源の調達をはかろうとした。
軍政当局は東インドにおける兵力不足を解消するために、兵補や郷土防衛義勇軍を設立して、現地住民の子弟たちに軍事教練を施した。その訓練は苛烈を極めたが、これらの軍事教育を受けた青年たちが、次の独立戦争でオランダと戦うインドネシアの軍事組織の将校団を形成していくことになった
その後日本はインドネシアの独立の方針を推し進め、1944年9月にはインドネシア国旗の掲揚と国歌の斉唱を解禁した他、1945年3月には独立準備委員会を発足させた。
・インドネシア独立戦争 ウィキペディア
1945年 - 1949年12月27日
インドネシア独立戦争は、日本が第二次世界大戦で連合国へ降伏した後の旧オランダ領東インドで、独立を宣言したインドネシア共和国と、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダとの間で発生した戦争(独立戦争)。
1945年から1949年までの4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になった。
1945年8月15日に日本がオランダを含む連合国軍に降伏し、念願の独立が反故になることを恐れたスカルノら民族主義者は同月17日にジャカルタのプガンサアン・ティムール通り56番地のスカルノ邸の前でインドネシア独立を宣言し(独立宣言文の日付は皇紀を用いている)、スカルノが大統領に選出された。
オランダはこの独立宣言とスカルノの大統領就任を無効とし、独立を目指すスカルノやハッタらの民族主義者やブントモ(英語版)らの軍人と、日本軍の武装解除を行ったイギリス軍、および植民地支配再開を願って戻って来たオランダ軍の間で4年にわたってインドネシア独立戦争が展開された。
日本軍政下で独立派への軍事教練を行っていた日本軍人が2000人加わり、訓練や教育、宣撫に活躍し、その半数は戦死したものの戦闘に参加した者もいた。(映画「ムルデカ17805」)
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・・映画「ムルデカ17805」 ウィキペディア
「ムルデカ 17805」の「17805」は「17-8-05」で、皇紀2605年(昭和20年)8月17日の意味です。
インドネシア独立宣言文に使用されています。
市来龍夫君と吉住留五郎君へ。独立は一民族のものならず全人類のものなり。1958年8月15日東京にて。スカルノ
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1949年12月国連の斡旋でデン・ハーグで行なわれたオランダ-インドネシア円卓会議(通称、ハーグ円卓会議)によりオランダは正式にインドネシア連邦共和国 独立を承認した。
1950年 インド連邦共和国に12か国が合流し、インド共和国が発足。
1954年8月、このオランダとの連合国家の解消が宣言された。
1956年にはハーグ協定を正式に破棄して、西側に属するオランダと決別し、非同盟中立国家として歩むことを目指した。
1957年12月には、植民地時代から蓄え続けていた自らの利権を死守すべくインドネシア国内に残っていたオランダ人を追放した。
イスラーム国家の樹立を目指すアチェ州のダウド・ブレエ率いるダルル・イスラーム運動は独立戦争のさなかから1965年まで続き、西ジャワのカルトスウィルヨの反乱(1962年銃殺)、南スラウェシのカハル・ムザカルの反乱、そして1956年から1958年まで続いた西スマトラのプルメスタの反乱など、インドネシアは国家分裂の危機に瀕していた。
この当時のスカルノは、1955年に開催された第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)を主催するなど、国際政治の場面では非同盟諸国のリーダーとして脚光を浴びていたが、国内政治においては、大統領に強大な権限をあたえない1950年憲法のもとで、リーダーシップを発揮できない状態にあった。
議会制民主主義の機能不全や、政党政治家たちの腐敗を目の当たりにして、スカルノは国軍司令官スディルマンの協力を得て、1959年7月、制憲議会の解散と、大統領に強大な権限をあたえる1945年憲法への復帰を宣言した。
1963年にマラヤ連邦が北ボルネオをイギリスから譲り受けてマレーシアが建国されると、スカルノはこれをイギリスによる新植民地主義のあらわれであると非難し、「対決政策」を宣言した。インドネシアはボルネオ島全域の領有を主張して、マレーシア領へ侵入するなど、一触即発の事態となった。これは翌年に領有を主張するフィリピンも含めた3者が東京で会談するなどで、現状維持で落ち着いた。
この対決政策によって、インドネシアはアメリカ合衆国とIMFからの経済援助を停止され、国際社会から孤立していった。
スカルノは急速に中国に接近し、そして1965年1月7日、国連を脱退した。さらに1965年の独立記念日(8月17日)には、世界銀行とIMFからの脱退も宣言した。
そのようにして対外政策が進んでいるあいだにも、インドネシア国内の経済状態は悪化し、インフレによる物資高騰は民衆の生活を苦しめた。
・9月30日事件 ウィキペディア
インドネシア国内では「9月30日運動 Gerakan Tiga-puluh September」、略して「G-30-S」という。また、クーデター部隊やその協力者をナチスのゲシュタポ(=恐怖政治のイメージ)にかけて、「ゲスタプ(Gerakan September Tiga-puluh)」ともいわれる。
スカルノから治安秩序回復の全権委任を得たスハルトの主導のもと、クーデター首謀者とされたウントゥンや事件に関与したとして共産主義者、約50万の人々、特に40万の中国系の集団虐殺が起きた(華語教育や文化活動も同時に禁止された)。20世紀最大の虐殺の一つとも言われ、50万人前後とも、最大推計では300万人とも言われるその数は今日でも正確には把握されていないが、こうした残虐な大虐殺は、1965年10月から1966年3月ごろまでスマトラ、ジャワ、バリで続いたと見られる。インドネシアの国民的作家プラムディヤ・アナンタ・トゥールもこのとき拘束され、以後長い獄中生活を強いられることになった。
1965年 9月30日事件発生
1966年3月11日、スカルノはスハルトに大統領権限を委譲する命令書にサイン。
インドネシアの政変劇は終幕。
1966年9月にインドネシアは国連に復帰した。
1967年3月、スカルノは終身大統領の地位を剥奪。
1968年3月、スハルトが第2代大統領に就任した。
スカルノ政権による外資凍結、外国企業接収は、それらに利権を有していた欧米諸国からの非難を呼び起こし、それまでインドネシアの独立を支持していたアメリカもスカルノに対して不快感を強めていった(ここからスカルノ政権の転覆を図るためにアメリカのCIAが9月30日事件を策謀したという説が出てくる)。
事件の詳細について、スハルト退陣後の今日に至っても明らかとはされていない。スハルトが2008年1月27日に死亡したため、スハルトの口から事の真相を聴くことは叶わないものとなった。また、最後に言及したように、事件後の「共産主義者狩り」に動員されて多数の一般住民の殺害に関与したものと思われる人々の「過去の清算」が難しいことも、スハルト以後の各政権がこの事件の詳細を明らかにしたがらない理由であるとも予想される。
人物・組織
・①スカルノ ウィキペディアデヴィ夫人 ウィキペディア アメブロ
→長女 メガワティ・スカルノプトリ ウィキペディア
1996年7月27日、スルヤディ派はメガワティ派にジャカルタの党本部の明け渡しを要求し、これに抵抗したメガワティ支持者を建物から強制排除した。
これに怒った党メガワティ派のみならず、一般庶民多数がジャカルタ市中心部で暴徒化し、鎮圧に当たった軍との衝突で、死者5人、負傷者百数十人、多数の行方不明者が出た(「7月27日の悲劇」)。
・ゴルカル ウィキペディア
・インドネシア民主党 ウィキペディア
スハルト体制期に存続を許されていた2野党のうちの一つ。政党のシンボルカラーは赤、シンボルマークは野牛。略称はPDI。以下、本論ではPDIと略す。
・闘争民主党 ウィキペディア
自由主義に立脚した中道左派。インドネシアの初代大統領スカルノの娘であり、インドネシア第5代大統領となったメガワティ・スカルノプトリを領袖とする政党である。政党のシンボルカラーは赤、シンボルマークは牡の闘牛。略称はPDI-P。
1997年、新党名は「Partai Demokrasi Indonesia-Perjuangan」となった。インドネシア民主党(Partai Demokrasi Indonesia)の流れを一部引き継ぎつつも、スハルト政権下でおおざっぱに結成された万年野党としてではなく、そういった色彩を一掃して「Perjuangan(闘争)」の精神を表明するという意気込みが感じられる党名となったわけである。
・②スハルト ウィキペディア
・③ハビビ ウィキペディア
スハルト政権末期の副大統領を務め、スハルト辞任後、同国の第3代大統領に昇格し、翌年まで務めた(在任1998年-1999年)
・タン・マラカ 1897年 - 1949年2月19日 ウィキペディア
草創期のインドネシア共産党を牽引し、共産主義とイスラームの両立と、東南アジア全体からオーストラリアの熱帯部までを含む広域的な社会主義共同体「アスリア(Aslia)」を構想するなど、そのスケールの大きな独自の革命思想は、インドネシアの近現代史において異彩を放っている。
・プラムディヤ・アナンタ・トゥール ウィキペディア
作家。「ゲリラの家族」、「日本軍に棄てられた少女たち―インドネシアの慰安婦悲話」Bloggerなど
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※1963年11月22日 ケネディー大統領暗殺 ウィキペディア サイト
◎アメリカでクーデターが発生するも、愚民化政策(3S)が功を奏しばれず
落合信彦 「決定版 2039年の真実」
※ベトナム戦争 ウィキペディア
・・自作自演のトンキン湾事件 ウィキペディア
1964年 米国が本格的にベトナム戦争に突入する契機となるトンキン湾事件が起きる。
北ベトナムのトンキン湾をパトロール中の米駆逐艦に北ベトナム哨戒艇が攻撃を加えたとし、その報復としてジョンソン政権は北ベトナムを爆撃。以降、ベトナム戦争は一気に拡大する。
しかし、1971年、ニューヨーク・タイムズの記者がペンタゴンの機密文書を入手。このトンキン湾事件は米国が仕組んだものだったことを暴露した。1995年には当時の国防長官ロバート・マクナマラも「北ベトナム軍による攻撃はなかった」と告白している。
※1970年カンボジアでロン・ノル将軍がクーデター サイト
※1997年アジア通貨危機 ウィキペディア
※映画「サルバドル/遥かなる日々」 ウィキペディア アメブロ「むすめの右クリック」
エルサルバドルに取材に来たリチャード・ボイルさんの実話を基に描いている。
※エコノミック・ヒットマン ジョン・パーキンス YouTube ダイジェスト版
1981年エクアドルのロルドス大統領、パナマのトリホス将軍ともに墜落死
1973年9月11日 9月11日に、ピノチェト将軍が陸海空軍と警察軍を率いて再度大統領官邸を襲撃し、チリのアジェンデ大統領死亡。
1961年12月クーデターによりコンゴのルムンバ首相殺害される
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4/21 18:30 イメージシアターに集合 月曜日オフ会 Blogger
2014年4月21日 月曜日 18:30 イメージシアター前に集合して、18:45の上映を鑑賞し、そのあとアリアピタ・フード・デライトにて一杯飲む予定です。
参加連絡は、facebook、Rettyのイベントページからお願いします。
facebookイベント Rettyイベント
14:00現在で3名参加予定です。
シアター・イメージフォーラム
東京都渋谷区渋谷2-10-2 イメージフォーラムビル - 03-5766-0114アクト・オブ・キリング
サイト facebook121分 - G 指定 - ドキュメンタリー
11:15 13:45 16:15 18:45 21:10 映画館にお問い合わせください
予告編だけでもかなり衝撃的です。 映画『アクト・オブ・キリング』予告編 YouTube
只今、JR名古屋高島屋11Fの三省堂さんにて『アクト・オブ・キリング』の特設コーナーを設けていただいています。映画の背景である〈9.30事件〉関連書籍のほか、予告編も見れます。とくに〈9.30事件〉に関する日本語で読める書籍は、国内での事件の認知度がまだまだ低いため数も少なく、かなり貴重です。映画を観て、この事件に関心を持たれた方は、ぜひこのコーナーにお立ち寄りください。
早くも2014年度ナンバー・ワンの声も上がっている衝撃作『アクト・オブ・キリング』は、いよいよ明日4/12より公開です。ドキュメンタリー好きは必見!
〈9.30事件〉とは
スカルノ初代大統領のとき、共産党がクーデターを起し失敗し、スハルトの国軍によって共産党関係者が90万人粛清された事件。ウィキペディアより
9月30日事件(くがつさんじゅうにちじけん)、通称9・30事件とは、1965年9月30日にインドネシアで発生した軍事クーデターである。
クーデターを起こした国軍部隊は権力奪取に失敗しているので、正しくはクーデター未遂事件というべきであるが、一般に、未遂事件後のスハルトによる首謀者・共産党勢力の掃討作戦に関連する一連の事象全体を指して「9月30日事件」と総称している。
事件の背景として、国軍と共産党の権力闘争、スカルノの経済政策の失敗にともなう国内混乱、マレーシアとの対立により国際連合脱退まで至った国際政治におけるインドネシアの孤立などがあった[1]。この事件を契機として、東南アジア最大だったインドネシア共産党は壊滅し、初代大統領スカルノは失脚した[2]。
インドネシア国内では「9月30日運動 Gerakan Tiga-puluh September」、略して「G-30-S」という。また、クーデター部隊やその協力者をナチスのゲシュタポ(=恐怖政治のイメージ)にかけて、「ゲスタプ(Gerakan September Tiga-puluh)」ともいわれる。
スカルノ政権による外資凍結、外国企業接収は、それらに利権を有していた欧米諸国からの非難を呼び起こし、それまでインドネシアの独立を支持していたアメリカもスカルノに対して不快感を強めていった(ここからスカルノ政権の転覆を図るためにアメリカのCIAが9月30日事件を策謀したという説が出てくる)。
1961年に、マレー半島一帯の宗主国であったイギリス政府の肝いりでマレーシア連邦が建国されると、スカルノはこれを「旧宗主国による植民地主義の復活である」として厳しく非難、国軍部隊を派遣して「マレーシア粉砕」を高らかに宣言し、1962年からは軍事衝突が断続的に起こった。これがさらなる国際的非難を招くと、1965年1月にはマレーシアの国際連合安全保障理事会非常任理事国への当選に抗議して国際連合からの脱退を敢行し、インドネシアの国際的孤立はますます深まっていった。
こうした実行を伴ったスカルノの外交パフォーマンスには、多分に国内向けのナショナリズム・アピールという側面があり、国民の経済的困窮の不満を外に向けて発散させるという動機があったことも見逃せない。そうしたスカルノの姿勢に対して、国内でも軍主流派やエコノミスト、一部政党政治家らは危機感を強めており、挙国一致して国難を乗り越えようとするスカルノの「指導される民主主義」末期には、国内各勢力の分裂の契機が内包されていた。
国軍対共産党
「指導される民主主義」を標榜していたスカルノは、国家の危機的状況を乗り切るために民衆のナショナリズムを絶えず鼓舞していた。彼がさかんに唱えたのは「ナサコム(NASAKOM)」というスローガンである。これは、NAS=Nasionalisme(インドネシア国民党に代表されるナショナリズム)、A=Agama(ナフダトゥル・ウラマーを代表とする宗教組織)、KOM=Komunisme(共産主義)の三者一体によって挙国一致の翼賛体制を支えるスローガンであった。民衆にナショナリズムを高揚させる一方で、スカルノが有力な支持基盤としたのはインドネシア共産党だった。植民地時代以来、時の政権に対して対決的姿勢を示し続けてきた共産党であったが、1953年のアイディット(Dipa Nusantara Aidit, 1923年‐1965年)の書記長就任以来、合法的活動・大衆路線を採用し、その傘下の各種組織とともに、スカルノ政権下で順調に党勢を伸ばした。
一方、独立戦争後に内部対立で権力が分散していた国軍は、組織の合理化など一連の改革によって組織的求心力を強めることに成功し、国政上においてもその存在感を増しつつあった。スカルノはこの国軍を牽制するために共産党に接近し、両者のバランサーとして振る舞うことによって、権力を維持しようとした。
しかし、スカルノの下での共産党と国軍の主導権争いという構図は、スカルノ自身の健康悪化という不安要素とともに、両者の緊張関係が最高潮に達したとき、何かが起きるという暗い予感を内外に印象付けるものであった。
9月30日事件の詳細な経緯については、スハルト政権崩壊後の今日においても、未だ闇の中に包まれている。事件後、インドネシア政府による公式見解としては、同情報省が1965年12月に発表したニュースリリースによる説明があるが、これに全面的に依拠することはできない。
1965年9月30日(木曜日)深夜、首都ジャカルタにおいて、大統領親衛隊第一大隊長のウントゥン・ビン・シャムスリ中佐(Untung bin Syamsuri, 1926年 - 1966年)率いる部隊が軍事行動を開始し、この一団は、翌10月1日未明までに、陸軍の高級将校6名を殺害し、国営ラジオ局(RII)を占拠し、「9月30日運動司令部」と名乗ってインドネシア革命評議会の設置を宣言した。
殺害されたのは、
陸軍司令官アフマド・ヤニ中将
陸軍司令官第二代理スプラプト少将
陸軍司令官第三代理マス・ティルトダルモ・ハルヨノ少将
陸軍司令官第一補佐官シスウォンド・パルマン少将
陸軍司令官第四補佐官ドナルド・イザクス・パンジャイタン准将
陸軍査察部長ストヨ・シスウォミハルヨ准将
の6人であった
革命評議会は、これらの陸軍将校が「将軍評議会」を結成して政権転覆のクーデターを準備しており、それを阻止するために決起した、と説明した。
陸軍の主だった首脳が死亡・逃亡し最高司令官が不在となったことにより、一時的に陸軍最高位に立つこととなった戦略予備軍司令官スハルト少将は、速やかに指揮下の部隊を展開して首都の要所を制圧し、運動に呼応した共産党傘下の共産主義青年団(プムダラヤット)や共産主義婦人運動(ゲルワニ)も排除することに成功し、10月2日には混乱に終止符を打った。
そして10月3日、ジャカルタのハリム空軍基地近くのルバン・ブヤアで、古井戸に投げ込まれていた6将軍の遺体が発見され、翌日その葬儀が大々的に行なわれた。その模様を知らされた国民は、事件の残忍さに震撼した(以後、スハルト政権下では毎年10月1日、このときの模様をテレビ特番で放送し、共産党の残忍さを国民に知らしめ、また事件後の「共産主義者狩り」を思い出させることによって、「恐怖の記憶」を定着化させていた)。
※韓国ドラマ「トンイ」の政権争いの様子にそっくり。
自分より地位が上の人がすべて殺害され、殺人者を鎮圧。
共産党関係者を虐殺
事件当日、スカルノはクーデター部隊の本拠地となったハリム空軍基地にいて、その直後ボゴール宮殿に身を移しているが、それまで共産党に肩入れしてきた経緯もあって、事件への関与を疑われる厳しい立場に追い込まれた。スハルトと会談したスカルノが、事件後の「治安秩序回復」に必要な全ての権限をスハルトに与えたことは、そうした立場での交渉力の弱さを突かれたものと思われる。そのスハルトへの権限委譲は、のちにスカルノ自身の政治生命を奪う致命傷となった。
当時のスハルトは、インドネシア独立戦争や西イリアン解放作戦などで野戦指揮官としての評価を得て陸軍内で昇進を続け、1963年5月、陸軍の精鋭部隊である戦略予備軍司令官に就任、1965年1月には「マレーシア粉砕」作戦司令部副司令官にも任命されていた。一見、政治的野心からは程遠い、堅実な軍人と映ったのか、スカルノはスハルトを重用した。
しかし、9月30日事件は両者の力関係を完全に逆転させた。
スカルノから治安秩序回復の全権委任を得たスハルトの主導のもと、クーデター首謀者とされたウントゥンや事件に関与したとして共産主義者、約50万の人々、特に40万の中国系の集団虐殺が起きた(華語教育や文化活動も同時に禁止された)。
20世紀最大の虐殺の一つとも言われ、50万人前後とも、最大推計では300万人とも言われるその数は今日でも正確には把握されていないが、こうした残虐な大虐殺は、1965年10月から1966年3月ごろまでスマトラ、ジャワ、バリで続いたと見られる。インドネシアの国民的作家プラムディヤ・アナンタ・トゥールもこのとき拘束され、以後長い獄中生活を強いられることになった。
映画「アクト・オブ・キリング」トークショー:デヴィ夫人ほか YouTube
60年代インドネシアで起きた大虐殺の実行者たちが、自らの虐殺を映画化するという衝撃のドキュメンタリー「アクト・オブ・キリング」。2014年3月25日、シネマート六本木で行われた特別試写会の上映前トークショーの全貌を公開!虐殺当時、大統領夫人としてインドネシアで事件を実際に体験されたデヴィ夫人をゲストに迎え、オッペンハイマー監督と共に、当時の様子を詳細に語っていただきました。司会は映画評論家の町山智浩さん。
本年度アカデミー賞ノミネート作「アクト・オブ・キリング」は2014年4月15日よりシアター・イメージフォーラム他、全国順次公開。
デヴィ夫人:
当時の日本の佐藤栄作首相がインドネシア大使にポケットマネー600万円を渡して、スハルトが雇った暴徒を支援するように言った。
サイトウシズオ大使は、アメリカの大使と仲が良かった。
このアメリカ大使は赴任する先々でクーデターが起きることで有名。
虐殺があっても国連はまったく動かなかった。
スカルノはアメリカによって5回暗殺されかけた。
こちら↓ はリンク先が別になっていたため見ることができなかった
『インドネシア大虐殺』について語っていただいたデヴィ夫人。
夫人がインタビューが終わった後、何度もおっしゃっていたのが『この事件の真実が明かされればスカルノ大統領の汚名も晴らされる』と言う事。
※スハルト ウィキペディア
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【御礼!初日全回満席】
おかげさまで、本日、シアター・イメージフォーラムでの上映は、レイトショーを含む全5回、全て満席となりました!
ご来場頂いたお客様、本当にありがとうございました。そして、お入り頂けなかったお客様、本当に申し訳ございませんでした。
我々スタッフがこの作品に出逢ってから、はや1年以上、公開までの道のりは決して平坦ではありませんでしたが、応援して下さった皆様のお力で、無事にこの日を迎えることができました。日本の公開に携わった関係者一同、心より感激、また感謝致しております。
さて、まだまだ上映は始まったばかり。明日からの上映も混雑が予想されますが、イメージフォーラムでは、午前10:30より、その日の全ての回の整理券をお求め頂けます。前売り券をお持ちのお客様も、整理券との引き換えが必要となりますので、是非、お早めに窓口へお越し下さい。引き続き『アクト・オブ・キリング』を、どうぞよろしくお願いします!
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