2014年1月27日月曜日

神聖ローマ帝国の料理 Tabela



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カフェレストラン Tabela ‏@Tabela_jp

「☆本日のランチ
ハーブ三元豚の田舎風(フランシュコンテ)粒マスタードのクリームソース
☆有機ジャガイモとキャベツのアンチョビバターパスタ
ご来店お待ちしております。」

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神聖ローマ帝国の料理
こちらのお店はtwitterで毎日、日替わりのランチを教えてくれます。
パスタと肉類の二種類あります。
今回はこんなつぶやきを見ました。

☆本日のランチ
ハーブ三元豚の田舎風(フランシュコンテ)粒マスタードのクリームソース
☆有機ジャガイモとキャベツのアンチョビバターパスタ
ご来店お待ちしております。

フランシュコンテはフランス東部、スイス国境付近にあります。
11世紀から18世紀まで神聖ローマ帝国の領邦国家でした。
つまり、神聖ローマ帝国の料理かもしれないのです。

さっそく行ってきました。

サラダは自家製の特性ドレッシング、おかわり自由です。
サラダをおかわりしてから待つこと20分。
メイン到着。

見てすぐこれが神聖ローマ帝国の料理と納得しました。
白いソースのかかったポークソテー、緑の野菜、紫の付け合せ、揚げたポテト。
神のような白いポークソテー。
茨の冠をあらわす野菜。
イエス様が流した血。
磔にされた十字架の木のかわりのポテト。
まるで神が降臨したような料理でした。

ご飯は白でなく鴨の色でした。
そういえば、お米は合鴨米。
なんだか鴨の味がします。

サラダ、メイン、合鴨米、プチデザート、コーヒー
これで千円はお得です。
ただ育ちざかりのぼくにはちょっと物足りないです。
でも、おいしいので赦します。

そんなことを言うぼくはいいカモしれない。

メインの写真がないのは、待ち時間が長すぎてキレてしまったからです。
最近キレやすいので、注意していたのですが残念な結果になってしまいました。
次回は、落ち着いていしっかり充電してから出かけるようにします。

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フランシュコンテ

ウキペディア

フランシュ=コンテ地域圏の旗

フランシュ=コンテの位置



Besançon
人口 1,143,107人
(2005年)
面積 16,202km²
9
市町村

中世のブルゴーニュ伯領にほぼ対応する地域で、ブルゴーニュ伯領はハプスブルク家が支配し、ブザンソンは帝国自由都市だった。17世紀にフランス王ルイ14世の侵略を受けネーデルラント継承戦争、オランダ侵略戦争を経て1678年のナイメーヘン条約で最終的にフランスに併合される。
一方、東部のモンベリアルとその周辺地域からなるモンベリアル伯領(14世紀以来ヴュルテンベルク家が支配)は、1793年にフランスに併合された。そのため、モンベリアールなどドイツ国境に近い地域では、隣接するアルザスやロレーヌと同様、文化的にドイツの影響を色濃く受け、アルザスほどではないが高地ドイツ語の一派であるアレマン語を話す(話せる)人が多い。

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アレマン語 ウキペディア

アレマン諸語の使用地域は、かつてのゲルマン民族のひとつアレマン人(スエビ族の一派という)の住んでいた地である。そもそもアレマン語とはアレマン人の言葉という意味である。

この言葉が言語か方言かについては言語学者によって見解が異なるが、エスノローグは「標準ドイツ語の会話者が理解する事は困難」とし、ユネスコは明確に異なる言語であると指摘している。

「ドイツ語」をフランス語で「アルマン(Allemand)」というのはアレマン語を話すアレマン人(仏:AlamansまたはAlémans)にルーツがあると言われるが、フランス語でも「アレマン語」は「アレマニーク(Alémanique)」という別の単語を用い区別はされている。


アラマンニ人(阿:Alemanne、独:Alamannen、ラテン語・英:Alamanni)は、ドイツ南西部のライン川上流地域を原住地とするゲルマン人の部族連合。アレマンネ人、アラマンネン人、アレマン人とも表記される。


 紀元前後にスカンジナビア半島あるいはユトランド半島から南下し、ローマ帝国の皇帝・アウグストゥスが遠征させた将軍・ウァルスとのトイトブルク森の戦いで名を轟かしたゲルマン部族連合の盟主だったケルスキー族首長のアルミニウスの傘下に属したランゴバルド人とともにゲルマン系の連合部族の一派に遡るという。後に東部ドイツのエルベ川の流域に移住したと伝わる。
このゲルマン系民族は3世紀中頃から度々ローマ帝国領内への侵入を試みた。皇帝ガッリエヌスの治世には、ローマ帝国がライン川及びマイン川の流域に防壁を設けていたため、エルベ川から民族移住して、リーメス内への居住が認められ、ラエティアを経て一時はアルプスを越えイタリア本土への進入もみられたが、続く皇帝クラウディウス・ゴティクス治下の268年のベナクス湖の戦い(Battle of Lake Benacus)で敗北し、撤退を余儀なくされ、同時に古くからライン川流域にいたケルト人、または侵略者のローマ人との混血を繰り返して、アルプス山脈北西部にあるライン川上流にて「アラマンニ人」として、民族形成がなされた。


271年には、プラセンティア(現伊ピアチェンツァ)の戦い(Battle of Placentia)に勝利し同都市を一時占領したものの、皇帝アウレリアヌスが率いるローマ帝国軍にファーノの戦い(Battle of Fano)で敗れ、敗走した。

367年には、ローマ帝国の属州であった高地ゲルマニアの中心地モングンティアクム(現マインツ)を占拠したが、皇帝ウァレンティニアヌス1世が指揮するローマ帝国軍に敗れ、その後、374年には、アラマンニ王マクリアヌスとウァレンティニアヌス1世との間で和平が結ばれた。
5世紀に入ると、その領域はアルプス地方からライン川中流域にまで拡大した。しかし、496年から497年にかけてハイデルベルク周辺のトルビアックの戦い(Battle of Tolbiac)でメロヴィング朝フランク王国を創始したクロヴィス1世(クロートヴィヒ)に敗れ、その支配下に入ると、キリスト教(カトリック)への改宗が進んだ。

やがて、アラマンニの有力貴族は、神聖ローマ帝国の部族大公としてのツェーリング家のバーデン辺境伯、ホーエンシュタウフェン朝のシュヴァーベン公国として発展させたのである。
さらにスイスの小貴族であり、神聖ローマ帝国・オーストリア帝国の君主となったハプスブルク家、ニュルンベルク城伯・ブランデンブルク公・プロイセン王、さらにドイツ帝国の君主となったホーエンツォレルン家も、元来はアラマンニ族の有力貴族であった。





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アメブロ 神聖ローマ帝国の旅 

ウキペディア

フリードリヒ3世は倹約家として知られ、「ポルトガルへの使者に旅費をほとんど与えず、使者は物乞い同然でポルトガルたどり着き逮捕された」、「ローマまでの路銀を教皇に用立てさせた」、「エレオノーレに『ワインをストレートで飲むとは何事だ!』と怒った」、「日頃の食事は芋と豆料理ばかりだった」等の風説が広まった


1806年 神聖ローマ帝国が滅亡したとき、江戸では、料理書『料理簡便集』が発売されていた。

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http://www.mse-g.com/aigamo/rice.html

合鴨米(アイガモ米)とは

初めて聞く方も少なくないと思いますが、合鴨米(アイガモ米)とは、お米を作る際に通常除草剤、農薬など害虫からお米を守る為に使用される薬品を一切使用せずに、合鴨の習性を利用して作られるお米のことです。

ではどのように合鴨米(あいがも)は作られるのかと言いますと、その名の通り合鴨を飼育して稲穂の成長過程時に合鴨を田んぼに放し稲穂によってくる害虫を食べてもらう、合鴨に除草作業をしてもらう事で農薬、薬品類の使用を一切なくすことが出来る農法の事を合鴨農法と呼んでいます。

話をさかのぼると合鴨農法で作られる合鴨米にも歴史があり、日本には、平安時代頃に中国からアヒルやアイガモが渡来した。以降、日本に定着し、安土桃山時代には豊臣秀吉がアイガモ農法を奨励したことが記録されている。

歴史上有名な人物、天下統一した豊臣秀吉が熱心に取り組んだ歴史、合鴨による、お米生産方式、合鴨農法が生まれたんです。今現代に、その合鴨農法を取り入れることで先人の知恵、歴史を残す事が出来ます。

合鴨農法は大変でも歴史的にも価値のある農法です。安心して、おいしいお米が食べられるようになるには、現代農法=大量生産で使われている農薬などを使用しないで先人の知恵を引き継ぐ事で可能になります。

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ジョンティ (Gentil)

食べログ HP 

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